宮沢賢治の小品『猫』について
( 賢治は猫嫌い?)
それは20年も前に読んだ、賢治の雑稿のような十数行の、まったく謎の文章。今でも頭にこびりついている一行。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しそうになります。)
これはあんまり不思議だったので、長く心に残り、しばしば思い出しては首を傾げていました。
河合隼雄先生もこの小品に着目され、「賢治は実は猫嫌いで、しかし作品に多く登場させるのは、作家として猫の心的表象を自由に使ったのですよ。別に、好き嫌いで書いてる訳じゃ、ないんですよ。」と言う風な見解を提示しておられます。 出
この作品は、いま調べてみると、そのまんま『猫』と言う題名で、いかにも雑稿、覚書のようですが、カッコでくるんだ文章と本文(?)が、戯曲のように交互にあらわれ、形式的にも整った、精錬された詩のようにも見えます。私の頭の中でいま、脈絡なく鳴っているのは、『ドン・ジョパンニ』の最後の、亡霊との対話です。 悪漢ドン・ジョパンニが、いよいよ地獄に、引き込まれて行く所です。
こりゃちょっと、全文掲載せんといかんようですね。サービスでカッコ内は紫色。それぞれに読んで、おごやいっ。 注
『猫』 宮沢賢治 作 (と言うか、筆?) 出
(四月の夜、とし老った猫が)
友達のうちのあまり明るくない電燈の向ふにその年老った猫がしづかに顔を出した。
(アンデルセンの猫を知ってゐますか。
暗闇で毛を逆立ててパチパチ火花を出すアンデルセンの猫を)
実になめらかによるの気圏の底を猫が滑ってやって来る。
(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)
猫は停ってすわって前あしでからだをこする。見てゐるとつめたいそして底知れない変なものが猫の毛皮を網になって覆ひ、猫はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
(毛皮といふものは厭なもんだ。毛皮を考へると私は変に苦笑ひしたくなる。陰電気のためかも知れない)
猫は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。
(どう考へても私は猫は厭ですよ)
いかがですか? 普通、打つべき句読点を、省略していますね。漢字にしなければ成らない所も、わざわざ平仮名です。読みづらいったら、ありゃしない。他にも、こんな事をする例があります。
俳句、和歌です。推敲を重ね重ねて練り上げた句を、読みっ飛ばされては、かなわない。だから、二三度読み返して吟味してくれるように、わざわざ読みにくくしているのでしょう。
「切れ目が判らなければ、そのくらい知れるように辞書でもお引き。一見さんお断り。ほほほ、ここは京の老舗よ。」と言う訳で、句読点を打たないのだと思います。
これも、そうではないか ………
その他の証拠としては、
猫は四月の夜と言う、おどろしい時に、闇から現われて闇に消えて行く。
滑ってやって来て、流れて去って行く。
一二行目は「かねあい」だんだん「離れる・後ろに回る」と言う、演劇的、音楽的な「技巧」を使っている。
つまり、体裁が整っているのです。
「なめらかによるの気圏の底を」とか、「毛皮を網(あみ)になって覆ひ」とか、表現やイメージだけでも、作品と呼べる重みがある ………
決定。こりゃ単なる雑稿やメモではない。読み手を意識した、作品として練られたもの ………
さて、内容ですが、
つめたいそして底知れない変なものが猫の毛皮を網になって覆ひ、猫はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
このイメージが、この小品の眼目ですよね。いったい、何の事でしょう?
猫がぺらぺら顔や頭をなでさすり、網のようなバリア、陰電気の電磁スクリーンを張っているのです。
まったく、解らない。単なる断片的なイメージ、妄想に見えます。
それでこの部分は私の記憶にもなかったし、河合先生も引用しておられません。しかし、一晩寝て起きたら、思い当たる事がありました。
「 これは、『 耳なし芳一』 じゃないか。」
体中にびっしりと書かれた経文は、まったく網の目のように見える。
これは、同じイメージを表現したものではないか?
この網がなければ、闇の中に身体が溶けてしまうからではないか?
芳一は、それで外から入ってくる悪霊から身を守ろうとした。ところが耳にだけ経文を書き忘れ、亡霊から耳をむしり取られてしまう。………
意識がどんなに完璧を期そうと、いや、するほどに、決定的な穴が開く。
そして意識には、それが解らない。目は光の差すものしか、見えないからです。闇となると、お手上げです。
それでも意識的に必死の努力をしないと、すべてを、命までを奪われてしまう。
「芳一はこの危難を逃れて後に、ますます素晴らしい琵琶の名手と成りました。」
と言うのが、オチです。
立派に完成される人生でも、まさにその才能ゆえに、一度は闇との接触がある。
芳一は自分の人生と善に忠実だったから、気がついたら知らぬ間に、亡霊達のただ中で、請われるままに琵琶を演奏していたのです。その琵琶の技は、この世のものを越えていたので、あの世との境界を曖昧にして、亡霊たちを呼び出してしまったのです。
これに対しては意識的な努力で、必死に防がねば成りません。しかし闇から現われた『影』は、無残にも芳一の両耳を引きちぎってゆく ………
この「耳」と言うのは、琵琶を弾くのになかなか大切な所である事を、強く指摘しておきます。(実際に、ベートーベンやフジコ・ヘミングさんは、耳に痛手を負いました。風邪を引いて耳が聞こえなくなる奴など、どこの世界にいるでしょう? ) 注
影との接触では、誰でも酷い犠牲を支払わねばならない ……… いや、生還できる者は、稀である ………
と言うのが私の解釈で、これはオーソドックスな解き方と思います。
(もちろん作家は、こんな屁理屈を垂れながら書いている訳ではありません。多少は参考にするでしょうが、そんな事をすれば、実に無残な事に成ってしまうでしょう。)
世にも稀な才能を持った者は、まさにそれ故に、あの世との境界を引き裂いて、『影』とまともに対面してしまう ………
とすると、『耳なし芳一』は、(原作の方の)『ゲド戦記 1』に似て来ますね。
私は『耳なし芳一』は、小学校低学年頃の教科書で読んだと記憶しているのですが、今の子供達は、あんな面白いお話を、読ませてもらっているのでしょうか? 当時の教育者は別に、「理論的に」教科書の題材を選んだ訳ではありません。子供の頃読んで、面白かった。恐かった。何故かしら、感銘深かった。いま思い返しても、あの頃の自分に読ませてやりたい。面白いものを、教えてやりたい。それだけです。
考えたらあの難解なファンタジー、『影との戦い』レベルの昔話を、日本人は子供時代から、たくさん読んで育って来たのですよ。それでやっと、です。
学校がしてくれなかったら、どうか、家で読ませてやってくださいっ。
ところで、賢治の『猫』を読んで、「賢治は猫嫌い」と、そのまま額面通りに受け取るとは、まことに河合先生には珍しい事ですね。
「賢治の言う猫とは、実際の猫の事だろうか? これを闇、無意識の世界から現われた何かと考えてはどうだろう? それならば、その内容に呑みこめない、吐き出したく成るものが含まれていたとしても、当然ではなかろうか?」
と問い掛けるのは、普段なら河合先生の役割です。
だいたい最初に「アンデルセンの猫を知ってゐますか。」と、かましているのです。
河合先生が何故ここを滑らかにスルーしてしまったかと言うと、たぶん賢治が『耳なし芳一』をまったく意識せず『猫』を書いたからで、河合先生は読めば「ひゅん」と、書いている時の賢治の傍らに飛ぶ事が出来るのです。この辺の事は、私から見れば「超能力」の次元です。私には次元の違う世界ですので、何とも申し上げられませんが、河合先生は単純な見落としなどしませんので、何かがこれを河合先生の意識から隠した。これは「後で大規模に解いてやろ。」と言う予告かも知れません。期待ですね。
ともあれ、「天才がたたらを踏む所には、何かある。」のです。
猫は昼間には夢の世界にいて、夜になると起き出して闇へと消えて行くもの。 注
猫は光と闇の間を自由に行き来するもの、人を闇へと魅了して誘う ………
猫はまったく、アニマそのものですね。
まあ、実際に猫を飼った事のある人なら、たいていは案外くだらない事、せいぜい紅マグロか酢ダコの事を考えているのは、よくご存知と思いますが。(笑)
( しかし本当に大切な事は、よく覚えているようです。私は何度か、人間として猫に負けた事があります。)
網とは、何かをもれなく遮断するもののイメージとして使われます。
芳一も猫も、自分の体に網を張りました。
そう言えば、『毛皮』が強調されていますね。ひところ文学評でよく使われた、『皮膚感覚』が、理解の切り口に成るかも知れません。 注
それなら「苦笑ひ」と言うのも、解るような気がします。(本笑)
( 『皮膚感覚』とは、誰にも定義できない便利なコトバで、もっとも曖昧ですが、すべての指標や前提だったりします。普段はノミにかまれた時にしか使われませんが、感情や感性の底にある、実はカミサマのようなもの。外界と隔てた皮一枚が、です。実に、困った事です。これも、理系の人達に任せましょうか。
だから文学では、内界と外界を遮るこの一枚は、感覚的な、あの世との境として使われて来たようです。)
こちらの世界とアチラの世界の間には、目に見えるようで見えない、境界があるようです。さいわいな事です。
いや、透かしてなら見えるけど、実際には行ってはいけない、立入禁止の看板つきの、金網世界なのでしょうか?
自分の体に網を張るとは、どんな事があっても自我の統一を失わぬための、意識的な努力なのでしょう。つまり、
たとえどんな時にでも、絶対に自分自身だけは失わないと言う、固い決意です。
その網はマジックミラーのように、芳一の側からは見えるけれども、悪霊の側からは芳一を隠す。
意識的な努力と言う網を張ったら、こちらからは自分のおぞましい欲動や衝動 ……… あるいは非常な幸運に対する相補的な、時には身体や運命のレベルでの自己破壊の衝動が、……… 自分を噛み裂こうとして歩き回り、捜し回っているのが解る。
しかし、息を詰めてそれに注意している間は、襲われる事はない。そうすると悪霊は去って行くし、次に現われた時にも、身構える事が出来る。
こう考えると、小さい頃『耳なし芳一』を読ませてもらったおかげで、私は随分と、助けられているようです。「どう助けられているか、わからない。」これが、肝心だと思います。
ここで私は3DCG映画、『アタゴオルは猫の森』の原作と成った『ギルドマ』の事を思い出してしまいます。(『アタゴオル』7巻 メディアファクトリー社 また、『アタゴオル外伝T』 MF文庫 ますむらひろし著 に収録。)
『影』に近いレベルで、それを抑止する何ものか。
それは影の『対』であり、影が動き始めるや否や、それを抑止するために動き始めます。それは、生きて行くための、心の仕組みであると思います。もしその人の生への憧れが、死への衝動を上回っているなら、ギリギリの所で助けてくれる。
影は額から尾てい骨までを貫く、一番に根深いものです。『封印』するしか、ありません。
欧米では「影との和解」、東洋では「魔の封印」。しかしこれは案外、同じ事なのかも知れません。 例
闇は世界の半分ですから、無害化し、光の世界を成立させ、展開させる力として、深く取り込む他はない。途方もない事ですが、知らないうちに出来ているから、我々はこうして立っていられるのでしょう。
ところが我々も生きている限り、やはり知らないうちに、どこかへと進んでいる。一歩ごとに光と闇のバランスは崩れ、そのつど立て直さねば、歩き続けられません。そして人生のうち何度か、必ず大きくバランスを崩す事があります。
だから『影の対』は、どんどん成長して行かねばなりません。
耳なし芳一やゲド戦記、賢治作品やアタゴオルを読んで、『影の対』を成長させて行かなければ、『影』の方は、勝手にどんどん増殖して行くからです。
自分は今、何を学ぶべきかと人は迷い、この子には今、何を読ませるべきかと親は迷います。しかしまず、決める。選ばねばならないのです。
そして、たくさん読めばよい、優れた作品を読めば良いと言う訳でもありません。
一番大切なものは、ただ一つ ……… それは物語を伝える時に、物語と一緒に受け渡される、何か ……… 例
これは、『ギルドマ』を読んでください。
じらしている訳ではありません。私にはそれが、解らないからです。
私はそこまで追い詰められた事もなく、それを乗り越えた事もなく、それほど深く自分自身に問い掛けた事もありません。だからそれを語る事など、出来ません。
けれどもそれは、大昔から『太陽』として示されて来たものではないかと言うのが、今の所の漠然とした感想です。
ここまで書いた作家が、いたろうかと思います。しかも、あれほど楽しく愉快に、最後には面白かった本を閉じた時のような悲しみを添えて、実際に読み手に『ギルドマ』を閉じさせます。
「命の大切さを学んだ子供達は、命を殺そうとし始める。」と、私は母性と父性の定義で、書いたのですが、それは直接表現したり、学んだりしてはいけないのです。これは『意識の相補性』などのレベルではなく、感覚や感情の常識だと思います。
その反対に、子供がこれから生きてゆく上で絶対に必要なものを、育つように植え付けてやるのは、大人の義務でしょう。
一番いいのは十歳までに、そう言った欲望を『封印』してやる事です。
そう言う事をしたらもう、人間ではないのだと言う事を、怒りもあらわに刷り込んでやる事です。
私の小学校時代の先生達は、子供が人を馬鹿にしたり、尊大な事を言ったら、
『人が聞いて嫌がるような事を、言ったりしたりしては、いけませんっ!』
と、烈火のように怒り、あるいはしばらく誰も口が利けなくなる位に、その子を睨みつけたものです。
これをしなければ必ずいじめは起こり、子供は一生を通じて弱いものを見つけては攻撃するようになり、どんどん自分の運命を悪くし、社会も地獄のように成ります。
今の学校の状態は、社会全体の近い将来の姿を、明確に反映しているのは間違いありません。
しかし封印してやると、生涯を通じて非常にラク、と言うより、余計な苦労をしなくて済みます。
これは大人の子供に対する、最低の義務であると思います。
(命の大切さを教えたかったら、食べ物を大切にする事を教えた方が、まだしも効果があるかも知れませんね。(笑)
いや、これは冗談抜きで、食べ物こそは投影された、命そのものだからです。だからパイ投げなどをすれば、笑えるのです。
近年の健康ブーム、『おもいっきりテレビ』などは、私は絶賛する者ですが、もし『食への態度』が悪ければ、絶対に何一つ、得るものはないでしょう。)
「明るいと言う言葉が氾濫するたびに、どんどん日本が暗くなって行く」と言った作家がいましたが、闇を持っていない奴なんて、いる筈がないのです。それに目隠しをして、「明るい」と言う訳です。醒めたら余計に、寂しい事です。
おかげで闇は妨げなくどんどん増殖し、国債のような事に成るのです。
この点、闇からやって来るさまざまなものを、美しく目に見える形にしてくれる文学、芸術と言うものは、本当に知らずに我々を助けてくれている。あの「もっとも必要ではないもの」は、やはり、相当に切迫した必要によって産み出されて来た。いや、実は我々が産み出し育てて来たのだと思います。
更に言うと、『文化』と言うもの自体、そう言うものではないか? されば、影が歩き回っている世の中に衰退しているのは、実は文化ではないか?
食文化を考えながら文化包丁を握っていると、ついそう考えてしまいます。
今日も『学級崩壊に悩む小学校を立て直した神様のような名教師』が、教え子に猥褻行為を働いていたと言うニュースを聞きました。
彼は本当に、立派な人だったのでしょう。ところが立派な人とは、気をつけている人の事です。気をつけているから立派な人なのであって、その結果立派に成った人でも、気をつけるのを怠ったら、たちまち影に噛み裂かれる事に成ります。「たちまちのうちに」です。
彼が何故、そんな事をしたかと言えば、自分の心の幅を越えてよい事をしたら、必ずそれに見合う悪い事をしなければならないからです。
我々も普段しない程の仕事や勉強をしたら、その反動で一日中、家でごろごろしたり、遠くに遊びに行ったり、したく成りますよね。それの酷いものだと思えば、間違いないと思います。
だから良い事をした後には、運命からごほうびを期待するのではなくて、少し緊張して、災難に注意せねばならないのです。
これはお釈迦様も言っている事ですが、「行為の結果は忘れた頃にやって来る。」からです。これが何故かはまた、しっかりと論じたいと思っています。
もっとも、こんな特別な事ではなくても、破滅的な飲酒、手首切りや売春のような自虐行為。あろう事か、妻や子に対する家庭内暴力など、攻撃性が自他の区別なく荒れ狂い、そろそろ制御できなく成っています。
この『攻撃性』こそ『影』の半分で、それは荒々しくやって来て我々を服従させるのではなく、エデンの蛇や賢治の猫のように、腹ばいになって媚びながら、また、妖しくも「滑らかに夜の気圏の底をすべってやって来」て、我々を知らぬ間に、うまく取り込んでしまうのです。
いま新聞紙面に話題を提供して下さっている立派な方々などは、ぜんぶそうだと思います。
こう考えると、ゲドや芳一のような天才だけの話ではありません。『影との戦い』は、我々にもまったく、他人事ではないのです。むしろ天才達は、我々のために戦ってくれた。そのために稀な才能を、ほとんど自分のために使わなかった。それどころか、非常な苦悩を受け持ってくれた、と言うのが、実際だったと思います。
こうして大筋の見当をつけて、もう一度『猫』を読み直すと、うーん、何もかもが、いよいよ返って、恐ろしい。
この十数行の文章、もう三ひねりくらいありそうです。
たとえば猫(メルヘン)は何故この局面で、「とし老って」いるのでしょう? 単に「可愛くない」なんてものじゃないでしょう。だいいち、四月ですよ。(これは多分『死と結婚の秘密の共通性』で、『ユング自伝 2』みすず書房 p158〜159 などが参考に成ると思います。他、『元型論』にもあったと思います。)
猫の現われた場所は何故、友達のうち? (普通なら、家の近所、自分の部屋の中です。場所を、変えねば成らなかったのです。)
何か、賢治に大きな謎をかけられたような ………
書いても読んでもいけないような、語るべきでもないような世界? ………
やはり東北の作家は、まったく恐るべし!
PS.
で、結局のところ、賢治は猫好きだったか猫嫌いだったか?
これについては、ある友人の言葉を思い出します。
「猫は可愛いと言うより、面白い。」
彼は、「猫は好きでも嫌いでもない。」と明言する者で、ウチに来て初めて猫と接触し、猫がすってん、ばってんと転がったり、世にも嬉しそうな顔をして、ばりばりと「人間のぼり」をしたり、絶望したまま死ぬように眠ってしまったかと思うと、大あくびを一つして、まるで禅定によって問題を解決した一休さんのように、実に爽やかな気持ちで起き出すのを見て、上の名言を残したのです。
「天才とは二重の知性」
ショウペンハウエルはそう言い、芥川も似た事を書いています。
芥川は歌手が、死に瀕する身内の末期の声を、深い悲しみに浸りながらも、発声法の考察をしながら聞いた例をあげています。おそらくそれは、自分自身の創作と日常に対する、彼の自然な態度でもあったのでしょう。
同様に、賢治も猫嫌いだったか猫好きだったかに関わらず、猫を見ればその印象や、人々に与える効果を、熱い想いと醒めた目の両方で見ていた。
賢治が作品に使う猫の役割は重く、『どんぐりと山猫』は、猫嫌いには思いつかないでしょう。
反対に、『注文の多い料理店』では、猫のマイナスイメージを効果的に、何らためらわず使い、これはべたべたの猫好きには書きづらいでしょう。
河合先生の言われる通り、猫の効果を縦横に駆使しております。
これらを考え合わせると、賢治は猫好き、猫嫌いと言うより、猫使いだった。
そして猫はいつも、賢治の傍にいた。
私は個人的に、そう思います。
ちょっと待った!
たとえば、「この人は本当に、賢治の生れ変りではないだろうか?」と、私に本気で考え込ませてしまう、ますむらひろし先生は、猫を何匹も飼っていて、実際に猫好きだと聞いていますが、手塚賞に準入選され、出世作とも成った『霧にむせぶ夜』も、賢治同様、猫の面白さと恐ろしさを使っています。
賢治が猫のマイナスイメージを上手に使った事で、「猫好きではなかった。」と言うのは、賢治相手にあまりに単純な結論ではないでしょうか?
人間なかなか奥深いようで、最近では三島由紀夫が猫好きだったと知って、ちょっと驚いています。寝転がって猫つかんで抱き寄せて、嬉しげに笑う三島の写真を見て、あらまと意外の感に打たれました。私としては三島は、日本刀差して軍用犬でも連れているように思っていたのです。(笑) しかしそれではただの、馬鹿ですね。誰もが私のようにシンプルなおつむをしていたら判りやすいのですが、それでは世の中が、面白くなくなってしまいます。
ブラックジャックはピノコちゃんを、ショウペンハウエルは小型犬を連れているべきであって、もしあれが軍用犬でも連れていたりしたらもう、逃げる他なくなる訳です。
だいたい賢治作品に猫が登場する頻度は、他の作家に比べて異常に高いっ。これは賢治が猫好きであった可能性を、かなり示唆しています。
「猫に関した文章を書く」と言うのは、「猫と遊ぶ事」に近い心情と思います。
書いているあいだ中、「山猫のにゃあとした顔」を、見ていないといけないからです。この表現自体、猫嫌いに思いつくかどうか、私には疑問です。 出
漱石をはじめとして、作中に猫を登場させる作家は、たいてい実際に猫を飼った事があり、少なくとも相当に面白がって猫を見ていました。これは猫嫌いには難しい事です。
もし賢治が本当に猫嫌いなら、随分がまんして多くの作品を書いていた事に成り、それなら作品全体はもっと皮肉な、突き放した調子に成るのではないかとも思います。
『どんぐりと山猫』は、裁判とか判決をするのですから、「山の犬神さま」から手紙をもらった方が、いいですね。しかしそれでは恐くて、一郎君は呼び出しに応じないかも知れません。しかも、どんぐりの裁判です。最初から緊張感を欠いていて、閉じた目と口の端が、いつも「にゃあと」笑っている猫を持って来るのは、まったく適切です。しかしそんな事は、誰も思いつきません。
『猫の事務所』も、普通の作家なら、狸なり狐なりでやるのではないでしょうか? と言うのも、あのお話は「人間の中の犬の性質」、つまり、集団として生きる事を、最初からの性質の半分として義務づけられている、人間の悲惨について書いたもので、まずもって猫でやる事など、絶対に思いつく筈がないからです。
ところがこれを猫でやる事で、いっぺんに話ぜんぶが面白くなり、楽しく成り、ぜんぜん別なものに成ります。
歌舞伎でも宝塚でも、女形や男役を本当の女優や男優にやらせたら、醒めてしまいますよね、きっと。
けれども「これはお芝居なのだ。」と言う事が最初から解るので、人形劇のように、かえって簡単にその世界に入れる、そのままを受け取れるのです。
この場合の猫の使い方は、例えばナチスドイツの記録映画を全員に女装させてやるようなもので、『単なる異化』、プラスアルファの効果があります。
それにもし、本当に賢治が猫嫌いなら「私は猫は大嫌ひです」などとは、絶対に言わないのではないでしょうか?
一流の作家が、むきだしで感情を表現する事など、絶対にあり得ません。
(そんな事をするのは、ショウペンハウエルくらいのものでしょう。《-笑-》)
むしろ賢治は今までさんざん『猫』を使って来た。だから書けた。と言われた方が、説得力があります。
そもそもあれは、猫に対する発言ではありません。例えば『猫の事務所』の、「猫なんていうものは、賢いようでばかなものです。」と言うセリフは、明らかに「人間なんて」と言っている訳でしょう?
この作品中の猫だけが、実際の猫を指してるとつい考えてしまうのは、あまりにも訳の解らない作品だからでしょう。これもどうかしたら、賢治の技巧だったのかも知れません。
以上の事を総合して考えたら、賢治は相当な高確率で、かなりの猫好きだった ………
少なくとも、いつも観察して、考えていられる程度の好感は持っていた ………
と言うのが、今の所の結論です。
そして「好き」と言うのがいつも、それが自分自身の大切な何かであると言う表明ならば、つまり、もし賢治が猫好きだったのなら、かの作品は、次のように言い換える事も出来るのです。
次の文章の文学的な意味や価値は、あなたに
(四月の夜、とし老った自分自身が)
友達のうちのあまり明るくない電燈の向ふにその年老った自分自身がしづかに顔を出した。
(アンデルセンの自分自身を知ってゐますか。
暗闇で毛を逆立ててパチパチ火花を出すアンデルセンの自分自身を)
実になめらかによるの気圏の底を自分自身が滑ってやって来る。
(私は自分自身は大嫌ひです。自分自身のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)
自分自身は停ってすわって前あしでからだをこする。見てゐるとつめたいそして底知れない変なものが自分自身の毛皮を網になって覆ひ、自分自身はその網糸を延ばして毛皮一面に張ってゐるのだ。
(毛皮といふものは厭なもんだ。毛皮を考へると私は変に苦笑ひしたくなる。陰電気のためかも知れない)
自分自身は立ちあがりからだをうんと延ばしかすかにかすかにミウと鳴きするりと暗の中へ流れて行った。
(どう考へても私は自分自身は厭ですよ)
この言い換え、正鵠を得てはいないが、方向は正しいと思います。
最も正しい言葉の選択は、おそらく ……… ちょっと考えてから、下をポイントして下さい。あなたはきっと、正解を知っていますよ!