心理学と
一応、『ソンディ心理学普及会』のアドレスをご紹介します。別ウインドで立ち上がります。
http://www.edit.ne.jp/~ham/
運命学に関心のある方は、ぜひ一度行って見てください。 げぇ吐くほど難しいですから。しかし、『運命心理学』と呼ばれる、非常に興味深い分野です。初めて行く人は、このテキスト文書を持っていくと、多少ラクかも。私のメモ書きです。(これはまた、充実させます。)と言うのもあのサイトは、「全部読まないと最初っから解らない」構造になっているからです。《笑》
何がおもしろいかと言うと、運命学をかじった人には、「これはあの方術のあの象意ではないか?」と言うのが、結構あるのです。
これは、ソンディ博士が『結論から演繹・帰納を始めているからだ』と思います。つまり『運命と言う結論』から、『心理学体系と言う理論』を演繹・帰納したのです。天才の中でも「結論から証明を演繹・帰納できる人」と言うのは特別な存在 ……… 巨大な体系の創始者か、集大成をする立場の人 ……… つまり、最初と最後の人 ……… だと思います。
これはプラトンが、しばしばやりました。
「あらゆる偉大な発見は、証明に先立ってまず、結論から得られる。」と言ったショウペンハウアーは、もちろん自分の思索の軌跡を振り返って、そう述懐しているのです。
ユングの『元型論』も、そうだったでしょう。最初から元型を相当正確に把握していなければ、それを証明するための材料は、集められません。
他には、私は数学は知りませんが、ガロアとアインシュタインは、そうだったと言います。
例えばソンディ心理学のhとsの傾向は、手相学で言う「感情線が長ければ長いほどh」と見て、間違いありません。つまり情愛が深く、母親的な愛情になってきます。臨床の機会のある人は、一度見てみてください。これはほぼ、百発百中だと思います。
薬指と中指の間に入り込んでいる。(←これはデータが少なすぎて、断言できません。一種独特の傾向もあるようです。すごく明るいコミカルな人で、ひどい寂しがり屋のように思いました。そうするとこれはまた、『四柱で絶が二つある場合』などと、他の事と重なってくる訳です。)
長くてしかも、終わりが房状になっている場合は、更にこの傾向が増し、上の例とともに私は「愛情障害」と呼んでいます。あまりに深い情愛が、相手に煩わしく感じられ、母親に対するような攻撃性を誘発してしまうのですね。また反対に、人前で相手を怒鳴り上げる女性も何人かいました。これは幼児が母親に対するような、甘えの攻撃です。
やはり原因の多くは幼少期の愛情の障害で、非常に愛情に飢えている。しかし、それを受け取ってくれるような相手はいない。(これは恋愛感情のワクを超えていますから。そして確かにそう言った者同士は惹かれ合い、一緒に成っては、恋人、夫婦関係とは別次元の衝突をします。)また当然、対人関係が苦手で、孤独に焼かれる。まったく、地獄です ……… ソンディ博士は、ご自身の経験から、配偶者の選択に色々なアドバイスをしておられますが、私にはなかなか難しい問題です。この分野は何年かして、是非やりたいと思います。
運命学も心理学も何が面白いかと言うと、「人間に対する斬り込み方」でしょうね。
最初に『性』で、人間の頭の先から尾てい骨までを、真っ向から唐竹割にしたフロイト。
集団の中での自分を大切に考えたアドラー。
人間の認識のしかたや、人生の歩みと常に関連して考えたユング。
これらは「群盲 象をなでる」とか、「誰が一番正しいか」では決してなく、例えば人間の身体を見るのに、
「リンパ液の流れで説明ができる。」
「交感神経と副交感神経で説明できる。」
「脳神経系で説明できる。」
「血液の流れで説明できる。」
「消化器系さえ安定させれば、たいていの病気は治る。」
などと言うのと、似ていると思います。これは仏教の「唯識と心理学諸流派の習合」を提唱されている、岡野守也先生のご著書を読むとつくづく思うのですが、ユング自身も言っているように、
「若い方にはよくフロイトの理論が適切で、中年の人は私の理論が合う事が多いですね。」
性で苦しんでいる人には、もちろんフロイトが適切ですし、不登校で困っている人には当然アドラーが、また、人生に何か引っ掛かりがあって苦しんでいる場合はユングを。躁うつ病は薬が良く効くのでまず投薬を。子供を失ってノイローゼに成っている人は、これは宗教の問題になるし、生きて引き裂かれているなら「早く返してやれよ。」としか言いようがありませんね。
胃が悪ければ当然、消化器科に行くべきですが、消化器科があれば、他の科はいらなくなる訳でもなく、消化器科が一番正しいとか、そう言った問題でもない。
岡野先生が選んだ『習合』と言う言葉は、『神仏習合』の習合ですね。これは、「神と仏をごっちゃにして、一緒に拝む」と言うものではありません。(笑)「特に区別しない」と言うほどの意味でしょう。有意義と思われない区別は、特にしない。日本人として言うと、我々は神と仏を特に別々に考えてはいません。密教の方でも「神分祈願」というのがあって、修行の成就やらを土地の神様にお願いしたりします。全然、違和感はありません。
実は「その土地土着の信仰を利用して伝道する。」と言うのは、最初から仏教の常套手段でして、ぜんぶ仏教の一部分にしてしまう。たとえば『スッタニパーダ』と言う、釈尊時代の経典にも、「良いバラモンとはどんなバラモンか。」などを論じています。
当時インド全域を制覇して、次第にほころびが見え始めたバラモン教に、反対する勢力、無視する非勢力が出てきたのですが、仏教はこれによって
バラモン教
反バラモン教
非バラモン教
この全てを巻き込んで、爆発的な拡大を見せたのです。
長いのでよしますが、これと同様に、医学としての心理学も、心理療法の現場でも、特に一つの学説を意識する事は少なくなって行くでしょう。ある時は親鸞上人の本を一緒に読んだり、また、これはユング自身もした事ですが、ヨーガの練習をしたり、禅に興味のある人には、ちょっとお寺で座ってもらう。
そして易を題材にしたカウンセリング ……… 実はこれこそ、昔から『易者』の職業だったのですが ……… 易で遊んでみる。そして私は易を学ぶと言う事は、『ひとりカウンセリング』だと思っておりまして、これにかなり期待しているのです。
演劇療法が効いたり、運動した方がいいと言う人には、地域社会とも関連してくるでしょうし、結果を教育や育児にフィードバックさせて行く試みも、出てくるでしょう。そうなると、一部の省・庁にも関連してきます。このように自然に『成って行く』と思います。官公庁や医療、教育機関や地域社会、宗教施設などが、それほど別々ではなかった昔に、こうやって『戻ってゆく』と思います。
今や『癒し』のブームですが、確実に『救い』の時代に入ると思います。事態はなかなか、深刻なようです。しかしオウム以来、宗教には恐ろしくて入れません。これでは心理学のブレイクが起こるかも知れませんね。
本屋で『精神世界』として、心理学と占いと宗教の本が一緒に並んでいる(笑)のが昔から不思議でしたが、それは上のような理由で、自然に並んでいったのかも知れませんね。これには一種、危うさがあると思います。また書き直します。
ちょっと本気でヤバイので、一週間ほど抜けます。
ウインドを閉じればトップに戻らず、さっき読んでいた所が表われます。