太陰大極図とは何か?



 右の図が、易のシンボルマークとも言うべき『太陰大極図』ですが、いったいこれは何なのか?
 こういった謎は、考えても解りません。類似を捜し、その意義を浮き彫りにしてゆく作業をするしかありません。
 アナロジーの力を借りるのです。
 例えば左の図は、マルセイユ版と呼ばれる古典的タロットの最後のカード、『世界』の図です。

 一度でもタロット遊びをした事のある方なら、
 「何故このカードが『世界』なんだろう?」
 と首を傾げられた事があると思います。私は不思議でたまりませんでした。
 「いったいこのカードのどこが、何故、『世界』なのだ?」と。

 しかしごらん下さい。この両者は実によく似ています。
 少し詳しくこの『世界』を見てみましょう。

 四隅の象徴の中の『楕円』の更に内側で、両極のある棒を両手にした女性が、軽やかに踊っています。
 『世界』の楕円は、明らかにウロボロス、世界の卵です。
 しかもこの女性は両性具有者で、胸は丸に点。乳房としては描かれていません。また、陰部が布で隠されているのも両性具有の表現だとサリー・ニコルズ女史は指摘します。

 「四隅に根源的な象徴、円と楕円。中心の動きと回転。なるほど、確かに太陰大極図と同じだ。しかし ……… 」
 偶然に思えますか? 実はこの構図は、他にもたくさんあるのです。
 今からその一つひとつを見て、それらが何を表現しているか、ちょっと調べてみましょう。


 まず背景の四分割、『四象』から考えてみましょう。
 この『四象』と言うのは、実は非常に普遍的なもので、もっとも有名なものは、
 黙示録の十字
 でしょう。これはそのままタロット『世界』の背景の原典で、『新約聖書』ヨハネ黙示録四章七節の、
   「第一の生き物は獅子のごとく、
    第二の生き物はのごとく、
    第三の生き物は顔のかたちのごとく、
    第四の生き物は飛ぶ(わし)のごとし。」
 と言うものです。
 もっともあまりに普遍的なので、これ以前に文献としてもあったかも知れません。
 聖書ではこの四つの生き物は、天に設けられた『御座』の四隅にあり、その周りには緑玉のように見える虹が立ち、24の座と長老、霊である七つの灯火に囲まれ、そして御座からは稲妻と、もろもろの声と雷鳴がとどろき、御座にいます方は碧玉や赤メノウ(赤と青、その混合である紫のイメージ)のように見え、御座の前は水晶に似たガラスの海のようと言いますから、御座はきわめて崇高で動的なものです。
 24の座、7つの霊に囲まれると言う円環のイメージ、それを囲む四隅の生き物。
 全体は純化された土、鉱物と、それが更に純化した水晶(これは石化、永遠化された水かも知れません。)に満ちています。
 図示すると、タロット『世界』にも太陰大極図にも、見事なほど合致します。もっとも『世界』は、この文章から描かれたものでしょうから当然ですが、太陰大極図にも似ているというのは、別の事を示唆しています。
 いずれにせよ黙示録の十字は神、つまり世界の根源を表現したものと言えましょう。
 ちなみに黙示録の流れから、この箇所がどう出て来るかと言えば、
 「あなたは冷たくもなく、熱くもない。(中略 なまぬるい。だから、)あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しいもの、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。(三章一五節)」
 それで、とうとう神様が出て来ると言うのです。(ちょっと、東日本大震災の後なもので、私もかなり切迫しています。この問題は、文化の力で解かねば、何度でも繰り返す!)ここから先は、聖書原典をどうぞ。


 次に劇的なのは、『四神相応図』です。
 これは近年、風水の流行で有名に成りましたが、松塚古墳にも描かれているように、オソロシク古い伝統的なものです。おもしろい事に、西洋で「第一から第四」と、時間的に展開された神話的な要素が、東洋では「東西南北」と、空間的に配置されています。これが、『神話とマンダラ』です。音楽と絵画と言っても良いでしょう。私は「宗教とは、神話とマンダラにつきる」と思っております。この事はまた、別の機会にネチネチ語りたいと思います。
 ちなみにタロット『世界』の構造も太陰大極図も、「四角形と円の組み合わせ」であり、日の丸同様マンダラの基本形です。

   東の青龍、第二の牛。   龍や蛇は脊椎の機能そのものの力。副交感神経的。牛は女。が、龍も蛇も象徴は男性。
   南の朱雀、第四の鷲。   アニマ。飛ぶものは霊魂。
   西の白虎、第一の獅子。 アドレナリン、交感神経系的。馬・男・犬。
   北の玄武、第三の人。   玄武はウロボロス、副交感神経的。子宮。牛・女・まんまるに寝る猫。人とは意識の事でしょう。

 風水ではそれぞれ川、海、道、山などの自然物に、イメージとして対応します。
 そしてこの四者は中央の都市など、自我を守る、守護するものと成っています。


 日本人にとって最も身近なのは、おそらくこの流れと同じ、仏教の『四天王』です。
   持国天 - 東方の守護。
   増長天 - 南方の守護。
   広目天 - 西方の守護。
   多聞天 - 北方の守護。(毘沙門天の事)


 いやいや、それ以前に『四大州』があります。
 古い仏教ではスメール山を中心に、東西南北に四つの大陸がある事に成っており、スメール山の高さは六四万キロ。日月(相反する陰陽)は、スメール山の中腹程度をくるくる回っているのです。これが倶舎論時代の『世界』観です。
 そう言えばインドの北にはヒマラヤ山脈があり、中国、ヨーロッパ、アフリカ大陸があります。また、一つの大陸にはそれぞれ二つの島がある事に成っており、インドにはスリランカが、ヨーロッパにはイギリスが、中国には日本と台湾がと、だいたい当たってるんじゃないか? と言われる事もあります。それで今でも法要などで「東勝身洲 日本国」などと言う場合もあります。
 この図からは、太陽の軌道や月の満ち欠けを説明しようなどと言う気は毛頭感じられず、何か別の事が言いたいようです。


 そう言えばギリシャ神話でも、太陽はアポロンが4頭立ての馬車で、毎日ぐるぐる運んでいるのでしたね。


 更に最近仕入れた北米の神話、これはアメリカ先住民の神話ですが、世界の中心に蜘蛛女スパイダーウーマン、つまり意識にとっては「待ち構え、妖しい魅力で引き寄せ、絡め捕らえる女性原理」がおり、時の始まりに二本の糸を出し、それぞれを東西と南北に伸ばし、四方位が定まったと言う事です。この神話はもっとも簡潔にして要を得たものかも知れません。(のちに述べる、モナリザにそっくりです。また、タロット『世界』の中央の女性とも重なります。)
 かつて「絶滅したインディアンに、日本人だけが持つ遺伝子が見つかった!」と毎日新聞が一面で多少興奮気味に報じた事があり、私はその切り抜きを今でも持っていますが、何とも感慨深いものがあります。


 またサムイル・マルシャーク著『森は生きている』と言う児童文学がありますが、もともとは東ヨーロッパかロシア辺りの民話に取材した作品だそうで、演劇でやると子供達に非常に喜ばれる。これほど受ける作品も少ないのだと言います。その理由の一つは、
 『焚き火を中心に四季の十二の月の神々が集う』
 と言う、強烈なイメージにあると思われます。キリスト教文化圏とは言え、先の黙示録の十字を意識してこの民話が語られたかどうかは判りません。「どちらとも言えない」ように思えます。そして神様を呼び出す切り札の呪文は、
 「ころがれ ころがれ 指輪よ。」
 と、円環と回転のモチーフが出てきます。
 さらに続く呪文は、
     春のげんかん口へ
     夏の軒端へ
     秋のたかどのへ
     そして、冬のじゅうたんの上を
     新しい年のたきびをさして!
 と、四季の象意から「新しい年」の中心に燃える炎へと、次のサイクルに進みます。
 このような例はもはや、世界中にあるのではないでしょうか?


 例として最後に紹介したいのは、おそらく意外な事でしょうが、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』です。
 ところが実は、この太極図の説明の仕方は、モナリザを追求した結果、出来上がったものなのです。
 「モナリザの背景は、四つの場所をつなぎ合わせたものだった。」
 これは06'05/20フジテレビ系列放映の『ダ・ヴィンチ=コード ミステリースペシャル』で紹介された、フィレンツェ大学地質学のカルロ・スタルナッツィ教授が発見された事です。
 教授はモナリザの背景を独自に研究され、「モナリザはアレッツォ地方の四つの景色を組み合わせたもの」と言う結論に達しました。その情熱的な探求心には、感動さえ覚えます。また、背景の湖(海?)の水位の差は、ダ・ヴィンチ自身が「背景は別の場所だぞ。」とかなり直接的に表現しているのかも知れません。
 この瞬間、私なりにモナリザのアウトラインがつかめ、『モナリザの謎と秘密について』の骨組みが出来上がりました。
 中央の女性の顔は、左が男性、右が女性。(あるいは歓びと哀しみの顔、)男女融合の謎と言われています。
 それは、存在の根源は男性原理(陽)でも女性原理(陰)でもなく、むしろその両者を産み出しているものであるからに他なりません。
 そしてレオナルドは最初、キャンバスにばっさりとイエス キリストの肖像を描き、その上を正確になぞってモナリザを、つまり男と女の顔を描いた。
 そして周囲に四つの背景を配した。

……… 大極 両儀を生じ 四象を生ず ………

 見事な符合ではないでしょうか?

 この世界に産まれ出るために、(意識の場に登場するために、)唯一のものが自らを分割し、現れ出たものがこの『世界』と言えるでしょう。
 ウパニシャッドでは、神は「自ら産まれたもの」と表現されます。
 そしてレオナルドはモナリザの中に複数の楕円を隠しています。詳しくは上のHPのトップページの絵をクリックしてご覧いただきたいのですが、後頭部を作る楕円などはまるで卵、『世界卵』です。この楕円の発見によって、『モナリザ』の構図はタロットの世界、また太陰大極図とまったく同じと気づいたのです。
 またウィキペディアによると、タロットカードはダ・ヴィンチより100年前の「15世紀前半の北イタリアで製作されたのが始まりと思われる」との事。
 これは面白く成って来ましたよ。当時のタロットの『世界』が、どのようなデザインだったか判りませんが、かなりマルセイユ版に近かった? もしや、タロット『世界』をデザインしたのはダ・ヴィンチだったとか?
 これは「いろは歌は空海の作」と言うのと同様で、それはないでしょうが、ダ・ヴィンチがタロットの『世界』を意識してモナリザを描いた可能性は、かなりあると思われます。


  ともかく、
 永遠を表現する時には、かならず『循環・回転』と『四』の象徴が出て来る。
 『世界』とは回転する中心と、その周囲の四つのものから成る。
 世界は相反するものの回転・循環・律動と、その周囲に配置された四つのものから成る。

 これはもう、定番のようです。

 何故か?
 まず『 循環、回転 』と言うのは、まるで無から有が産み出される深みのように見える意識の根源を、イメージとして表現したものだからでしょう。そしてそれは神話が生きて動いているままで、マンダラとして認識された姿であり、自分の尾をくわえた蛇のように、自己自身で充足している姿です。
閉塞的な自己完結ではなく、無限を産み出す自己充足です。
 自らのうちに全てを持っており、欠落に会えば分かち与え、他者との回転が始まり、自らはますます富むのです。そしておそらくは、本当は誰でもがそうなのです。)

 さらに言えば、すべては中心から産み出されるのでしょう。ただ一つのものが永遠の深みから、自らを産み出すために自己を二つに分割し、四に分かたれて完全な意識の足場に成るのでしょう。
 (現代の科学では、1→2 は、『 間脳 → 右脳・左脳 』、『 自己 → アニマ・アニムス 』の三柱神トライアッドで説明しやすいのですが、この両儀が四象、四肢に分かたれると言う所に、むしろ飛躍があります。純粋に意識の形式かも知れません。)
 ギリシャでは、
 「世界は『地・水・火・風』の四要素から成る。」
 事に成っています。これはもっとも直接的な表現で、ヨーロッパの芸術ぜんぶにも関わってきます。
 これらの内容は、プラトンの『ティマイオス』に書いてあります。が、神話的な表現で書かれており、何の事か解りにくい。この解説もまた、やりたいものです。



 おもしろいでしょう? まったく違った文化で、まったく同じものが、当たり前のようにあるのです。
 時には伝播の可能性が、ちょっと考えられないような場合にさえです。まるで、
 『二人で同じ夢を見た時のように。』
 もっとも、そう性急にすべてを関連づける必要もなく、正確に対応していたら良い、していなかったら悪いと言う訳でもありません。ついついやってしまうのは、人のサガですが。(笑)

 要は何故、これほど似た体系が世界各地にあるのか? そしてそれが広く受け入れられているか? 何故、われわれ個々人の感覚にしっくりして、何となく神秘的な感じがするか? です。

 この疑問に対して私は、形式的には極めて厳密に統一されているのに、その内容には非常な幅がある事に、注目したいと思います。
 この事は、この構図が『もっとも根源的な意識の構造』を図示したものであり、人が自己の内側をのぞく時、どうしても採らねばならない『形式』ではないか? と言う可能性を示唆していると思われます。

 しかし何故そう言った形式があるのか? (笑われるかも知れませんが、)私は身体に手足が四本あるためではないかと疑っています。と言うのも身体の大筋の構造は、脳にもそれに対応する太い神経の配線があるはずで、これはあまりに安直な見解だから誰もあまり口にしませんが、我々は暗黙のうちに、脳の構造と意識の構造をだいたい同じと思って話を進めている事が多い。もちろん、そんな単純なものでない事は、語っている私も重々承知している筈なのですけれども、「案外これ、当たっているんじゃないか?」と思う事もしばしばであると、白状しておきます。

 さて、さらに『何故?』を考えてみましょう。



 最初にご紹介したのは、中心にコアのある太陰大極図です。
 これはモナリザで言えば、背後に描かれたイエス・キリストの像に当たります。
 しかしこの核は、時代と共に次第に消滅して行ったようです。そりゃあそうです。これは言わば存在の噴き出し口で、この世からは見えません。隠しておくのが正解です。理知的に説明しようとした場合にのみ、出てきます。
 河合隼雄博士によれば、日本神話に登場する神々は、神話(物語ストーリー)には参加しない神(つまり現実世界、意識には現れず、その奥で両者を生み出している神)を中心に、三者が同概念の男女一対の神がいて、三柱神トライアッドを形成していると言う事です。太極と陰陽の両儀は、一番根源的なトライアッドです。そして人はこの形式に即して、すべての物事を認識するのでしょう。

  太陰大極図の大本と言われる文章は、易経『繋辞上伝』の、
 「太極 両儀を生じ 四象を生じ 八卦を生ずる。」
 ですが、新しいタロットカードの中央にはしばしばアンク、「産み出すもの」の象徴、♀のマークを持った女性がいます。
 作用としては『産みだす事』で、女性原理が前面に現れています。

 また『世界』の「何か植物のようなものを編んだ楕円」、ウロボロスは、古典的には、
 互いの尾をくわえる二匹の蛇
 と成っています。最初は玄武のように、一匹の蛇が自身の尾をくわえている形だったでしょうが、エンデが『はてしない物語』でそのまま出したように、互いの尾をくわえる二匹の蛇が、世界(意識)の根源を表わします。
 これは太陰大極図そのものです。

 太陰大極図を指して「世界だ。」と言っているのなら、何となく納得ですね。
 タロットに詳しい人はいつも、長い説明をした後、「あなたが絵から受ける印象を大切にして下さい。」と言います。モナリザや、他のさまざまな例もまた、しかりなのでしょう。そうした時、はじめてその象徴は「生きる」のだと思います。



 最後に今までの全てを総括するような例を紹介したいと思います。
 『子供の夢』と題されたユングのセミナー記録から。
 これは、決定的です。
 十歳の少女の見た夢 ……… それはこんな夢でした。



 昔、夢で怪獣を見た。そいつはたくさんの角を生やし、それで他の小さな動物を串刺しにした。そして蛇みたいに輪になって暴れていた −−− すると四方の隅から青いもやが湧き出してきた。それで、そいつは食うのをやめた。そこに神様がいらっしゃった。その神様は、もともとは四隅におられた四人の神様たちだった。そして食われていた動物たちが、みんな生き返って出てきた。

( 『子供の夢』人文書院 P422)


 「蛇みたいに輪になって暴れていた。」とは、まさに太陰大極図ウロボロス
 しかし何故、それが攻撃性を発露し、アキバの殺人犯のように他を殺しまくるのでしょう? それは、神のそばには悪魔がいる。聖書によれば悪魔はかつて神のそばにいて、しかし堕ちたのだと。唯識でもアーラヤ識のすぐ上に、マナ識と言う凶悪な、闇の意識の層があり、神を求める者はこれをくぐらねばなりません。イエスも仏陀も成道の前に悪魔と対決しましたが、これは単純な逸話ではなく、いとも簡単に神は悪魔に変容する事の不思議を、必然を言ってもおります。例えばオウム真理教も最初は素朴な信仰の集団だったそうです。(そうでもないか。ちょっとマズイ例ですね。)
 『神、仏は人の心の中にいる。』とは、まことの悟りですが、
 『悪魔もまた、人の心の中にいる。』のです。
 ショウペンハウエルは人間の本質を『生きんとする意志』であると看破し、その性質を『盲目的』と表現しました。仏教で言うと『渇愛』そして『無明』です。意志は「けだもの」の姿そのもので、「たくさんの角を生やし、それで他の小さな動物を串刺しにし、蛇みたいに輪になって暴れて」いるのです。  

 『中心で輪になって暴れているもの』とは、まさにショウペンハウエルが『意志』と表現した、すべてを産み出す大極そのものです。そしてそもそも攻撃性、怒りと言うのは恐怖や不安に対する反応です。自己自身と、それが強く投影された自己以上のものの『防衛』と、『捕食』。捕食とは相手を殺して口の中に入れる事、これを衝動として持っている。
 つまりは生存の維持のためのものです。意志は存在を全面的に肯定するため、それを守るための攻撃性が前提と成っており、そのため自らも滅ぼしてしまう。神と悪魔はセットに成っている。「神はいつも悪魔をつき従えている。」と皮肉に言った方が良いかも知れません。これは原初的な生物でもその通りですが、それでは「人間的な意識」とは言えません。

 ところがこの夢では、四象は他から自己を守るとともに、自らの攻撃性から自己を守るもの。それを昇華し安定させるものとして登場しているのです。
 (考えたら自我が守られて安心しているなら、他を攻撃する必要はありませんものね。)
 すると四象とは、二重の母性と父性? (母と太母、父と老賢者) いや、今まで見てきた様々な例では、性質というより機能、精神機能と言った観があります。人や神、鳥や動物にイメージされるのですから。
 母性機能と父性機能そのものか、そのもとと成り、根と成るもの。そしてそれはどうやら、我々が両親から学んだらしい事。
 間違いなく答えはこの方向にあるものと思われます。


 そして『子供の夢』を読んでいると、「これ、ひょっとして、そんまんま、答? かな ………」と言うのが続きます。

 「古代には、世界は四つの要素に分けられ四気質もこれに対応していた。ショーペンハウアーでは、理由律の四根でふたたび四が現われる。キリスト教では、四分割が十字架の象徴に現わされている。(中略)
 全体性が問題になる時は、つねに四性が大きな役割を果たす。(中略)
 四はつねに本質的に人間的なものの発生、人間的意識の生成を表わしている。だから錬金術の過程も四要素への分割で始まり、そこで身体は原状態へ還元され、そこに変容が関与しうるのである

( 『子供の夢』人文書院 P421-422)
 (上の傍線部分は、驚いた事に原典から傍点が打ってあり、私が勝手に強調した訳ではありません。)

 タロットの世界、また太陰大極図は、人間意識の根源を図示したものと言って良いでしょう。
 ヨハネ福音書の冒頭、『はじめに言葉があった。』を、私は長く「言葉とは『論理・意識』の事だ。」と思っていましたが、よく『ロゴス』とルビが振ってあります。いまGoo辞書で調べてみると、このロゴスとは「古代ギリシャ哲学・スコラ学で、世界万物を支配する理法・宇宙理性。」の意味で、「キリスト教で、神の言葉の人格化としての神の子イエス=キリスト」との事です。(日本語では言葉と理性とはぜんぜん違うものですが、「言葉は運動系の脳と視覚系の脳をつなぐものではないか?」などと言われると、実にそのような気がします。)

 しかしユングが、『精神の四機能』として感覚・直感の横軸と、思考・感情の縦軸を打ち出したのは、どう言う思い入れがあったかと感慨深いものがあります。「精神機能が生成される時には、当然この形式を取る。」と言っているのかも知れません。

 あっ、いま気付きましたが、ユングはこの四つを、そのまま『 内向と外向 』に分けています。全体の構造は陰陽四行論です。あらまっ、何故いままで気付かなかったんだろう?
 これらの事は『タイプ論』と呼ばれ、人間の個性を『分類箱』に入れて、標本のように固定するのではなく、動的に、生きているそのままを理解するために考えられた方法です。この発想は臨床、つまり観察(経験)から産まれました。

 『両儀が四象を産み出す』 ………
 ショウペンハウエルは、はっきりとは言っていませんが、『根拠律(上では理由率)四根』の論文で、「時間・空間」と、やかましく繰り返します。これが両儀です。養老孟司博士の表現では『聴覚系と視覚系』、私に言わせると「神話とマンダラ」ですが、『唯脳論』の哲学談義には、無名のはずのショウペンハウエルの名が、二度も出てきます。

 上に引用したユングの言う『全体性』とは、意識の全体性の事です。(つまり齋藤孝、養老孟司博士らの言う『身体性』の事です。無意識は身体に直結した実感あふれるものだからです。これはまたの機会に譲りますが、ユング派の人々は『意識の全体性』と言う言葉を、『身体性』とほとんど同義語として使って来たのにお気付きだったでしょうか? 注意して読み返したら「あっ」と言いますよ。)

 両儀から派生した四人の神様、これは易経流に言うと乾と艮(父と老賢者)、巽と坤(母と太母)。個人的には父と祖父、母と祖母と言っても良いでしょう。(二重の)母性と父性です。この欠落が意志の暴走と、その反対の無気力の、一番の原因と思われます。
 攻撃性を、悪魔を封印するには、安心させてやらねばならないのです。生命を保証してやらねばならないのです。病的な緊張の中では、それは出来んのです。何か特別なものに成らないでも、生きて行ける。
 「僕はここにいて良いんだ。」
 と、その当たり前の事を確信して、それを人生の前提にしてもらわねばならないのです。


 そしてショウペンハウエルは、23歳の時の学位取得論文にして、彼の全著作中もっとも面白くないという定評のある、全集第一巻前半『根拠律の四つの根について』の巻頭を、次のような詩で始めています。
 この『四と言う数字を賞賛する詩』は、本文の内容とはまったく関係がなく、「何をコーフンして言っとるのだろう?」と、ファンでも首を傾げる所です。
 今にして思えば、「神のようなプラトン」と口癖のように繰り返したショウペンハウエルは、ギリシャ哲学に徹底して精通しており、「四」と言うと四つのリゾマータ(地水火風)をすぐ、読者が想起してくれると期待していたのでしょう。(私が読者でごめんなさい。)
 「四なる数をうえつけたもの」とは、我々の意識の根本的な構造、世界が産み出される時の感動だったのだと思います。

 われらの心に四なる数をうえつけたるものに誓って、
 四は永遠に流れる自然の泉にして根なり。